スーパーハードワークサッカー

京都サンガF.C.の試合レビューが中心。たまに観戦記。

「ネイティブ」と「非ネイティブ」

 

皆さんこんにちは、Ryu-Yです。

 

今回の記事ではサッカーから離れ、今思っていることを書いてみようと思います。

 

 

2019年3月21日に東京ドームで引退を発表したイチロー元選手の記者会見はご存知だろうか。私はこの記者会見は後世に残すべき伝説の会見だと思っている。野球ファンや子供たちのみならず、世界中の人々は彼の言葉に耳を傾け、共感、学びを得られると思う。

1時間24分にも及ぶ長編なのだが、時間のある方は是非見てほしい。

 

 

引用:www.youtube.com

 

中でも興味深いのが、イチロー氏に対する最後の質問に対して少し発展させながら発した以下の言葉である。(1時間21分辺りから)

 

「アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと、アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。

 孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと今は思います。だから、つらいこと、しんどいことから逃げたいというのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気のある時にそれに立ち向かっていく。そのことはすごく人として重要なことではないかと感じています。」

 

話は少し変わるが、新型コロナウイルス感染拡大抑制の為、我が国では非常事態宣言を出して不要不急の外出を控えるよう呼び掛けている。

その中で、昨今問題となっているのは「県外ナンバー狩り」といわれる行為である。

県外ナンバーの車に対して、窓ガラスを割ったり、サイドミラーを破壊したりといった嫌がらせ行為が全国各地で相次いでいる。

県外ナンバー=他県からウイルスを撒き散らしに来た野蛮人 とでも思っているのだろうか。

県によっては、厳しくチェックしているところもあるようだ。

引用:www.asahi.com

 

ここで、私はふと、ひとつのある考えが浮かんだ。

 

県外ナンバー狩り」が問題になる日本社会において足りないものは、イチロー氏が発した「外国人になったことで人の痛みを想像することが出来た。」によって説明できるのではないだろうか、ということである。

 

 

即ち、「非ネイティブで生きていくこと」である。

 

 

私たちにはそれぞれ生まれ故郷がある。出生地と育った街が違う場合には、おおよそ育った街が生まれ故郷といっても差し支えないだろう。

それはアイデンティティとも言うべき個人の土台になるもので、それぞれの考え方や生き方に大きく影響する。

東京で生まれ育った人にとっては地下鉄やバスに乗ることに緊張など一切無く、大型百貨店で買い物をする時に心拍数が上がることは無いだろう。

 

私は京都府福知山市という人口が10万人にも満たない小さな街で20歳まで過ごした。山陰線に乗って京都に行くだけでもかなりの冒険だったのだが、16歳の時に青春18きっぷを握り締めて片道12時間かけて東京国際フォーラムで行われる好きなアーティストのライブを観に行く為にドキドキしながら電車に揺られたのは強烈な想い出として今も脳裏に焼き付いている。巨大な東京駅、青信号と共に雪崩のように蠢く人々。ライブ会場でTwitterを頼りにチケットを譲ってもらった一期一会のファン。南千住に1泊3000円で泊まった小さな宿。そのどれもが非日常で圧倒的な私の原体験になっている。

皆さんも、どこか旅行へ出かけた時のワクワクとドキドキは経験したことがあるだろう。更に長期目線で見ると、林間学校で親元から離れて生活してみたり、海外留学などで全く知らない土地で過ごした経験があるという人も珍しくなくなってきた。

 

 

ただ、私にとって見知らぬ土地に行くこと=「非日常」を味わうことではなく、

一時的に「非ネイティブ」になることなのだ。

 

 

初めて目にする風景に対して感動する以上に、そこに住んでいる「ネイティブ=その土地の人」とは違う価値観であることを否が応でも気付かされる。

 

イチロー氏の言う「外国人になる」ことは、別に海外で生活することだけではない。自分のアイデンティティが通用する地域以外で生活する、旅することでも十分に感じられると思う。

今は旅行自粛が求められている為即座にそれらを経験することは出来ないが、私たちがこれまで経験してきた「非ネイティブ」な時間をふと思い出してみてほしい。

知らない土地で迷っていた時に道案内をしてくれた人、旅先の料理屋で地元の食材について説明してくれた店主、宿泊先でふんだんなおもてなしを披露してくれた従業員。

何も歴史を深く学ばなくたって、これまでの自分の経験を脳の奥から少し引っ張り出すだけでいい。ビスマルクの言う愚民になったとしても恥じることは無い。県外ナンバーを見つけた時にその物理的な表面にある地域名だけでなくその先にある、人それぞれのバックグラウンドを想像することが出来るのではないか。

 

ただ、一方でこれまでの社会では「非ネイティブ」ばかりを意識して「ネイティブ」との摩擦が起こっていたことにも触れておく。

具体的な地名を出すと各方面から怒られそうではあるが、本記事の理解を容易にする為、京都を例に出させて頂く。(ちなみに私は住んでも良いと思うほどに京都が大好きだ。)

ここ近年かなり顕在化しており地域住民の不満は我慢の限界だったと思われるが、京都で何が起こっていたのかというと、インバウンドの人的/経済的資本ばかりに目が眩み、地域社会で長くいる人々の生活利便性を蔑ろにしていた。ex)バスの混雑や住宅地での民泊乱立など。

いくら外国人観光客の消費が大きいと言えども、

地域住民>近郊旅行者>その他地域からの国内旅行者>海外からの旅行者

であり、社会を構築する上での優先順位も上記と変わりないだろう。

 

 

アフターコロナの時代にはニューノーマル(新しい生活様式)を作り上げていかねばならないと言われる。

ここ30年間で変わろうとしなかった既得権益の塊が一気に破壊されたようにも感じられ、「令和時代」として後から振り返った時には少なくとも「平成時代」よりはインパクトのある時代を築けるのではないだろうか。(歴史的な転換点のone of themだったことは人生においてアイデンティティを揺るがすほどの重要性を持つが、ここでは話が脱線しまくるので流石に割愛する)

 

ただ、私たちが忘れてはいけないのは、このグローバリゼーション(あらゆる資源の流動性の高まり)には逆らえないということだ。

旅行を楽しむことを覚えてしまった現代人に、旅先で美味しいものを食べて、のんびりと過ごすことを奪うことなど出来ないし、トヨタは欧米にクルマを売り続けるだろうし、我々はDesigned by Apple in California. Assembled in China.と書かれたiPhoneがこれからもしばらくは圧倒的なシェアを持つスマートフォンであり続けるだろう。

 

今生きている誰も経験したことがない未曽有のクライシス(危機)だからこそ、「ネイティブ」に生きている人は今一度「非ネイティブ」な体験を思い出してみてほしい。「非ネイティブ」な生活を現在進行形で営んでいる人は、周囲の「ネイティブ」な人から得られる優しさを存分に感じて欲しい。

 

 そのインタラクティブ(双方向)な「想像力」こそ、今の日本社会で最も必要なことだ。

しかも、想像すること、は人間誰しもが容易に実行出来る。

 

 

我々を人間たらしめる最大の特徴こそ、

そう。

「想像力」なのだから。

 

 

 

では、また。